日帰り散歩 大山之宿
弥次喜多珍道中にあやかって始まったまいことミカンの山陰道中記。
今回二人が訪れたのは「大山参り」。大山寺に向かう坂道は信仰と現実の境界線。
そこで二人が見たモノは?
休日に大山へ行ってみた。
普段は下から仰ぎ見るだけの山、スキーやスノーボード、登山にも縁のない人間には「遠くにありて想う」山、といったところ。でも、四季に応じて姿を変える山の姿は、仰ぎ見ていても楽しいものだ。春は白い雪の部分が段々減ってゆくさま、夏は緑に染まる姿、秋に紅葉に包まれる山、冬は真っ白な山に、夜になってゲレンデに灯る明かり。いつも見ているだけの山に、久しぶりに足を伸ばしてみることにした。
大山は古くから神の住む山と崇められ、「出雲国風土記」には「大神岳」と記された。
人の立ち入ることの出来ない聖地であったが、約1300年前に山岳信仰の山として開かれると、奈良県の吉野・大峯と並ぶ修験道の霊山として栄えた。平安時代には、天台宗と地蔵信仰の広がりとともに大山寺は隆盛を極め、室町時代にかけては160におよぶ社寺が建ち並び、一時は大山僧兵三千人といわれるほどの勢力を誇った。中世以降も、大山には祖先の霊が集まると信じられ、大山を望む里の人たちは朝な夕な大山に向かって手を合わせたそうだ。当時の人々は出雲大社や美保神社に参る「奥参り」、そして大山に参る「大山参り」を一生に一度の念願としていたそうだ。
古典落語にも「大山詣り」と言う話がある。神奈川にある大山(こちらは「おおやま」)に講と呼ばれるグループを組んで詣でるという話をベースに、そこで起きる騒動を話にしたものだ。江戸時代にも山岳信仰は盛んだったということだろう。今日はいわば、現代の「大山参り」というところか。
今日は女二人の弥次喜多道中、まずは大山寺の駐車場で車を降りた。山の空気は未だ冷たさを感じる。張り切って半袖で来てしまったことを悔やむ。町に春が来ている頃、大山は冬の終わりの中にいる。大山寺へ向かって、ゆるゆると石畳の坂道を登っていく。つらいなあ。普段の生活ではほとんど運動をしないので、延々続くように見える石畳の散歩は、いい運動だ。カメラなどの機材を抱えたミカンと二人、段々無口になってゆく。仰ぎ見る大山寺の門は、まだまだ遠い。
上を見るとつらいので、足元を見ながら歩く。じっと足元を見ながら歩いているうちに、普段の生活の中で頭の大半を占めている雑事や瑣事が頭から離れていることに気がついた。 自分の心と体、今この瞬間のことしか考えられない自分。
そうか、これはスイッチなのだ。
日常と非日常、その境目がこの坂道にあるのだ。昔の人々もこの道を上がることで、生活モードを信仰モードへ切り替えてきたのだろう。一歩一歩、踏みしめるごとに頭の中はクリアになってゆく。そして近づいてくる山門。雑事から離れて心の中を清め、ただ無心に神仏の前に額づくためにこの坂道があったのかもしれない。下から仰ぎ見ると長く見える坂道が、意味あるものに見えてきた。
門のそばには杉の大木がそびえている。「灯明杉」といい、古くは海を行く船に光を届ける灯台でもあったという話だ。私が冬に町からスキー場のゲレンデの明かりを見上げるように、船はこの杉に灯された明かりを目印にしていたのかもしれない。
大山寺の境内は静かだった。観光ツアーらしきお遍路姿のおじさん・おばさんのグループが集まっていた。彼らの手にする杖がちょっとうらやましい。
おみくじを引いて(小吉…)、境内を歩き回ってみる。頭の中がリセットされてくるような、澄んだ気持ちになってくる。あまり、信仰とか神仏に重きを置かないほうだけど、そんな私にもお寺の持つ意味やパワーが感じられた気がした。せっかくなので、手を合わせて少しだけお参りしてみました。でも、クリアになった頭には願いすら思い浮かばない。無心で仏に相対せよ、ということかな。まあ、ご挨拶ということで。こういう場所で、頭をカラにして小一時間過ごすことの出来る人が大人なんだろうなあ。
自分はまだまだ未熟者だ。情けなや、石段登りが利いてお腹が空いてきました。
また来た道を引き返す。登ってくる途中に「大山そば」の看板を見つけたので、もう頭の中はそばの事だ。まったくもって小者だね。
大山そばは、大山寺を代表する学僧の一人・基好上人がそば作りを広めたことに端を発するそうだ。基好上人は天皇の病気を治し、博労座牛馬市の元を作ったという。市に集まる人々にそばが喜ばれ、大山そばは広まっていった。それはさておき、まずは食べなくちゃ。シンプルな色の黒いそばだ。坂道の上り下りで渇いたのどに冷たいそばは快い。素朴な味のそばは、あっという間にお腹に収まってしまう。「おかわり」と言いたいところだけど、グッとこらえる。後ろ髪引かれながらお店を後にした。
車に乗り込み、みるくの里へ向かってみた。
途中、ミカンが写真栄えするいい景色を見つけたらしい。ハンドルを握る彼女は「ちょっとバックするね」と言って、車は後ろへ下がり始めた。「ああ、路肩に側溝があるなあ、ミカンはバックのときにスピードを出すなあ」とボンヤリ考えていたら、ガツンと衝撃が・・・。
そう、後ろのタイヤが見事に溝の中へ。二人で顔を見合わせていたら、目の前に一台の車が止まった。
お兄さんが降りてきて、車を出すのを手伝ってくれました。ありがとう、好青年。
思わぬハプニングにまだちょっとドキドキが収まらぬまま、みるくの里へ到着。ここでは、特製ソフトクリームが人気です。
牛の乳搾りも体験できるとの事、当日は子供づれのお客さんで賑わっていた。私も売店でチーズケーキ(お奨めです)など、家へのお土産を買うことに。先に会計を済ませ、同じく買い物をするミカンを待っていたら、「ちょっと、ちょっと」とレジから声をかけてくるミカン。
「どうしたの?」と近寄ってみると「車に財布を忘れちゃった・・・」と。本日初顔合わせのミカン、あなたは面白い人です。
こうしてみると余りにも間抜けな「大山参り」で、まさに落語の世界、珍道中だ。
でも、石畳の道を登ってゆく時の頭の澄み切ってゆくかんじ、これは普段の生活の中では味わえない非日常的な感覚だった。目を引く刺激や興奮するものはないけれど、ゆっくり流れる時間と静寂の中に身をおくことでいつもの暮らしの中にはない感覚が味わえる。町の中から少し足を伸ばすことで、案外リフレッシュできるものだ。日々の暮らしで頭の中が停滞してきたら、大山を訪れてリセットしてみるのも休日のプランとしておすすめかもしれない。
「大山参り」、いかがでしょうか?