昭和が生きている 商都 米子
船着場は旧市役所近くの天神橋の下。すでに船は用意され、船長の住田済三郎さんらが待っていてくれた。
「加茂川の清流を取り戻して、米子を元気にしたい」
住田さんらは同志と語らい、加茂川の清掃に乗り出した。ついに遊覧船を出せるまでになり、昔は積荷を運ぶはしけが出入りしていた川の面影が甦ってきた。船も有志の寄贈、清掃作業も全てボランティアだそうだ。
少し風がでた。船は、テープの米子の歴史ガイドを聞きながらすすんでいく。右側には白壁土蔵群が往時を偲ばせて並ぶ。左側にはベンチも置いた公園があり、北前船、回船業で栄えた名家、内町後藤家の黒塀が続く。はしけが行き交い人の動きも活気に満ちていただろう。橋の袂には可愛らしい地蔵が祀られている。水上から眺める川沿いの風情はまた格別、船はゆっくりと河口へ向う。
「ライフジャケットを着てください」
河口をでて中海も回遊するのだという。一気に視界が開けた。一帯夕焼けの美しさから「錦海」とよぶその辺りに手漕ぎの貸しボートを浮かべたことはあったが、エンジンつきの船で走るのは初めて。昔の中学生には競泳の折り返し点だった萱島が手に取る近さ、左手には桜の名所錦公園、遠くに安来の山並み。親に連れられてハゼ釣りに興じた島田海岸は干拓地と化している。しかし中海の汚れで激減していたハゼも最近また増え、賑わいが戻ってきた。
鴎が乱舞しながら上空を舞う。夏にはボラが飛ぶという。
「あれが米子城址です」
加茂川や中海にへドロが沈殿していた頃は生い茂るままの樹木に隠れて遠望できなかった本丸跡がくっきり見える。その向こうに長く裾野をひく大山。絶景なるかな。船についてくる鴎の群に餌を投げたりして戯れているまに折り返しのビッグシップ横に到着した。片道二十分。
復路は駅前から城山まで約二kmに及ぶ遊歩道「彫刻ロード」ぞいに、全国から集まった彫刻家が残した数々の作品が鑑賞できる近さで船は走る。あの道をゆっくり歩いてみたいと思った。初めてのクルージングは思いがけない楽しさであった。
「加茂川には昔のようにアユが戻り、蜆がわいてきた。今年は鮭の稚魚を放流しました。帰ってくるのか、楽しみです」
住田船長の声は弾んでいた。
船から川沿いの桜紅葉に見とれているときふと思った。船を下りたらまっさきかつての職場をたずねて見よう。すぐ近くの土蔵群の一角にある「今井書店」、私は友人たちが早めの定年退職をする年齢になってからここに職を得た。加茂川沿いに桜が咲けば、弁当を持ってその下で昼休憩を過ごした懐かしい場所。
さいわい、永井伸和会長、御母堂の寿々子さん、副会長今井直樹氏にお目にかかることができた。いまでは全山陰をネットワークしている今井書店の発祥の地はここ尾高町。明治五年の創業、百三十六年の歴史を持っている。その歴史の古さは全国屈指だが、全国的にも珍しい「文藝書専門店」が出来たのもここだった。
今井書店の歩みを見ると「文化とは人の心を育てること」の精神を貫いてきた道と思える。儒医であった初代兼文氏が禄を離れた後「本屋」を始めたことも、戦争末期、戦火を逃れて疎開していた郷土出身の芸術家たちに店の一角を開放、文人社活動をすすめ、それが米子市文化協議会の母体になったこと、またドイツの書籍業学校にならって、日本初の書店人を育てる「本の学校」を開校に漕ぎつけたのも、脈々と伝わる「人が大切」の精神によるものに違いない。私はそのことが誇らしかった。
今井・坂口の裏通りを鉤の手に回るとひょいと現れる加茂川、その向こうに米子城跡が見えた。さらに川沿いに国道九号線方向に歩いた橋の袂に「咲い地蔵」、溢れるほどの花が供えられ線香を手向けているお年よりの姿。ここら一帯、町に活気を取り戻そうと「わらい通り協議会」が結成され、地蔵供養や清掃奉仕、憩いの場「お休み処」をもうけたり、賑やかな声の聞こえる町を目指して懸命だ。
「こんな雰囲気大好き」
米子朝日町には昭和の時代にタイムスリップしたような路地が残っている。カメラの長谷さんはしきりにシャッターを押す。私が、取材で鼠の抜け道も知っている、と走りまわった幾本の路地もほぼ当時のままだった。思い出がいっぱい詰まっている朝日町の路地。
そういえばここへくる道々、「一銭屋」と昔の場所に昔のままの看板をあげた駄菓子屋を見つけた。狭い店の中は子供たちで大賑わい。十円の袋菓子を買って籤を引く、当たりが出ると「やったあ」、賑やかだ。昭和九年の開店以来七十年余り。「おばちゃん」と呼ばれて忙しい岡本小芳さんは言う。「楽しそうな子供の声を聞いているのが私の元気グスリ」
夕暮れ近くなり朝日町にはぼつぼつ灯がともる。表通りには昔のままに花屋があり、六十年焼き続けている「六方焼」が健在だった。米子を舞台にした映画「銀色の雨」はクランクインした。きっとここらの路地は「昭和が生きている町」として、映画の舞台にしばしば登場する予感がするのだった。
米子にはもっともっと会いたい人、訪ねて見たい場所がたくさんある。せめてそれらを一望できる「米子城址」に登って往時をしのびたい。鳥取大学医学部の脇を抜けた錦海側の登山道から城址を目指した。整備がゆきとどいて格好な散歩道、それでも一汗かいた。
城主不在がかえって庶民の活力を引き出したような街、と眼下に広がる米子を眺める。街並みの向こうに大山がゆったりと裾野を広げ、皆生温泉の浜、日本海、中海が日に輝いている。「米子は住みよいところ」とつくづく思う。いつか又この地にもう一度住みたい。