国宝 太刀銘安綱
「尾高城址に行きましょう」
淀江傘の帰り道、編集長は大山の正面道に車を走らせた。 着いたのは、大山が逆さに映る岡成池への途中の小高い丘の上、梅林の名所としても知られる旧名尾高ハイツ。
中世ではここらあたりが西伯耆の往来の要所として栄え、尾高城址という。
後、吉川広家が米子湊山に築城を始めるや、尾高城下から移住した人たちで形成されたのが「尾高町」、米子に「尾高」と「尾高町」、二つの同じ地名があるのはそのためである。
「この近くに国宝指定の刀鍛冶がいたと伝えられているんですよ」 この地の住人、編集長はこの辺りの地理と歴史にくわしい。
さっそくその地、日下に向った。 伯耆の穀倉地帯箕蚊屋平野の中ほど、古い茅葺屋根の家が見えてきた。道端に来歴を伝える碑が立っている。
その刀鍛冶、伝説では平家の落人と言われ、「伯耆守安綱」と称して名刀を打ち出していた。
安綱の名刀は戦国の世、信長、秀吉、家康と伝来、現在では東京国立博物館に国宝として所蔵されている。
隣接する「瑞仙寺」にはそれを証だてる銘が梵鐘に刻んであったというが火災で焼失してしまった。
「米子」に精通しているつもりで暮らした私だったが、実のところ歴史のことなど全く無知であることを思い知らされた。
米子という所、古来さまざまな人が入りこんで荒地を開墾して住み着き、ものづくりや商いに生業の道を求めた心意気が今も息づいている。
その夜はJR米子駅に近い、長年なじみの炉端焼「留味庵」のカウンターで友人たちと食事。
鰯や鯖、鯵の刺身はこの店ならではの新鮮さだが、この日解禁されたズワイガニがどさっと持ち込まれて食い放題、久しぶり「米子」の居酒屋にいるしあわせを満喫した。
平安初期、伯耆に住む刀工「安綱」作。
源頼光が大江山の酒呑童子を退治したという名刀、別名「童子切」「鬼切丸」とも言う。 その名刀は足利将軍家を経て織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠と武家の頭領宝剣として受け継がれた。刀工安綱の所在地は日下の他、岸本町大原、倉吉市にも伝承がある。