その昔、後醍醐天皇の内親王が過ごしたゆかりの寺
父娘の愛情を今に伝える“歯型栗”の逸話あり
元弘2年(1332年)、後醍醐天皇が隠岐の島に流されることとなりました。その際、天皇の娘である16歳の内親王も「そのお供をしたい」と願って幼子に変装し、一行の中に身を隠していました。ところが、隠岐の島へ渡る際に見つかってしまい「連れて行けない」と言われたそうです。
お供の願いが叶わず、内親王は「京の都に戻るくらいなら、少しでも隠岐の島に近い、米子で過ごしたい」と心を決めます。
そして髪を降ろして尼となり「安養尼」と名乗って父との再開を祈りつつ、この地で24年の短い生涯を送ったのでした。
それが、ここ「安養寺(あんようじ)」なのです。お寺の門や瓦などには、菊の御紋が残され、
現在でも、皇族墓所としてのたたずまいが偲ばれます。
「この栗が芽吹けば、父は隠岐から帰れる……」
語り継がれる、“安養寺の歯型栗”の逸話
安養寺には、内親王にまつわる
「安養寺の歯型栗(はがたぐり)」という民話が残されています。
父娘の愛情は今も昔も同じ……
米子で過ごした内親王の胸の内を今に伝えるエピソードです。
「安養寺の歯形栗」
昔、後醍醐天皇が鎌倉幕府にたて突いて隠岐島に流されなさる時(元弘2年・1332・3月)、流される天皇のお供の中に、天皇の16才になる娘さん(瓊子内親王)が変装して入っていなさったそうです。
一行が米子まで来て、さあこれから船に乗るってえので、も一度お供を調べたところが、天皇の娘さんが居るってことがばれて「あんたは船に乗せられんけぇ、京都へ去んなさい」といわれたそうです。が、娘さんは「いや隠岐に近いここ米子に居たい」てって安養寺に行かれたそうですと。
村の人は、はあこの人は天皇さんの娘さんだ、てぇので大事に扱ったそうです。秋になって栗がとれると「まあ初物の栗なと食べて寂しさをまぎらわっさい、初物は七十五日の長生きだけえ」と言ったかどうかは知りませんけど、かごに栗を山盛りに入れて持って来たそうです。
ところが箸より重い物を持ったことがないような宮中の暮らししか知らん娘さんには、堅い生栗の皮がむけんので、エイ面倒なり、と皮に歯形を付けたまま、もしこの栗が芽吹けば父天皇は隠岐から帰れる、といって寺の庭に埋められていた。とも、いやいや栗はゆで栗で、その一つを、もし芽吹けば…といって植えられたとも、生栗の一つを噛み砕いて、もし芽吹けば…と運試しに植えられた、といろいろに語られますが、その結果はどれも同じで、次の年、みごとに栗の芽が出たそうで。
娘さんの占い通りに父天皇は流された次の年、隠岐を脱出、船上山から京に帰られた話はご存知の通り。
ところが娘さんは米子がすっかり気に入って、かどうか知りませんけど、京に帰るのをやめて安養寺に残られ、十八才の時、髪を降ろして尼さんになられたそうです。
「桃栗三年・柿八年」いうでしょう。丁度尼さんになられた頃、例の栗の木に実がなりました。いそいそと初生りの栗のイガを広げて見たところ、アーラ不思議や栗の皮には歯形がくっきり付いていましたと。この歯形粟は歯痛に利く、といいましたが、木は枯れて今はありません。
所在地 | 鳥取県米子市福市724 |
電話 | 0859-26-0562 |
駐車場 | あり |
アクセス | JR米子駅より車で15分 |