城山を見渡す場所で静かに眠る
米子城主・一忠の菩提寺
常住山 感応寺
徳川家康は、関ヶ原戦の論功として、慶長五年に駿河城主中村一氏の子である十一歳の中村一忠を、三万石加増して十七万五千石米子城主に任じた。
若い中村一忠は、米子入府に際して、家老の横田内膳の助言を受けて米子城を築城し、更に菩提寺として一寺を建立し感応寺と称し、親交のあった静岡感応寺十一世の円覚院日長上人に依頼して招き迎えた。
日長上人は応えて、開祖に日蓮聖人の直弟子六人のひとり日向上人を、二祖に師である日朝上人を、自らは三世となり、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を本寺として、城主中村一忠の菩提寺として寺格を高められた。
後に米子騒動もあり、城主一忠は慶長十四年(1609年)五月十一日に二十歳で急逝し、二人の侍臣と共に感応寺に手厚く葬られた。
当初は、御影堂が建てられ城主中村一忠と殉職した垂井勧解由、服部若狭の二人の侍臣の木像が祀られていたが、時と共に堂が朽ちたために、城主中村一忠の三百五十回忌に大五輪の墓碑が建てられ、木像は本堂に祀られている。
また、日長上人の弟子の日陽上人が、徳川家康の側室、養珠院とその子である紀州徳川家初代になった頼宣の外護により感応寺を創建し、静岡、米子、和歌山の三寺は常住山感応寺と称して日本法華三感応寺と呼ばれるようになった。
所在地 | 鳥取県米子市祇園町1-89 |
電話 | 0859-22-4882 |
駐車場 | あり |
アクセス | 米子駅より徒歩約15分 |